虹のかけらを抱きしめて
メアリー・ジョー・パトニー著/中村藤美訳
980円(本体933円)/2009年11月27日発売
原題:SHATTERD RAINBOWS
2000年に行なわれた、All About Romanceの読者ランキング「Top 100 Romances」では第9位にランクインしました(ちなみに、『放蕩者に魅せられて』が第15位、『楽園は嵐の果てに』が第18位となっています)。また、ロマンティック・タイムズの愛蔵書400にも選ばれています。
あらすじ
19世紀初頭、ナポレオン戦争。アッシュバートン公爵の次男、マイケル・ケニヨン卿は英国軍に従軍していた。マイケルはベルギーの一時的な宿泊施設で看護師のキャサリン・メルボーンに出会う。すばぬけたキャサリンの美貌に心をつかまれるが、彼女は人妻だった。マイケルはかつて人妻と恋に落ち、裏切られるという悲劇的な経験をしていた。
そのため、決して人妻には手を出さないと心に誓うマイケル。しかし、キャサリンと顔を合わせるたび、想いがつのっていく。一方、キャサリンも顔には出さなかったが、マイケルに惹かれていた。夫コリンではなく、マイケルと結婚していたら? そんな夢想にふけることもあった。
そして、マイケルが出撃する日がきた。たがいの無事を祈るふたり。戦争で命を落としてしまえば、もう二度と会えなくなる。マイケルは自分が死んだときのために、親友たちへの手紙をキャサリンに託した。
その後、マイケルは戦争の現場へと向かい、壮絶な戦いの中で、重傷を負ってしまう。死を覚悟したマイケルは、そのまま意識を失ってしまった。
戦闘を終え、軍人たちが戻ってきた。マイケルの仲間たちの顔もある。だか、マイケルがいない。キャサリンは、マイケルの戦友ケネスとともに捜索に出る。
はたしてマイケルは助かるのか。結ばれぬ人妻との恋は成就するのか――?
『風に乗ってダンスを』の訳者あとがきで、次回作は「Petals in the Storm」とお伝えしておりましたが、出版を見送ることになりました。お待ちくださっていた読者の皆様には深くお詫び申し上げます。
冒頭のご紹介
プロローグ
一八一六年六月 ロンドン
夫が必要だわ。それも早急に。
キャサリン・メルボーンは発作めいた笑いを抑えながら肩越しに目をやった。今、出てきたばかりの建物がそこにある。その弁護士事務所を見ただけで、うわずった気分はすっとさめた。
夢ではないのだ。この三十分間のうちに、今まで聞いたこともなかった祖父ができ、あるとないとでは大ちがいの財産をもらえる機会ができた。エイミーとの生活をやっと支えていけるだけの職をさがさなくても、そのお金だけで何不自由なく暮らしていける。おまけに、先祖伝来の家、島、世襲の権利まで手に入るのだ。娘にもちゃんとした将来が約束されるだろう。キャサリンにはそれなりの責任も生まれるが、べつにかまわない。今までもずっと、重い荷を背負ってきたのだから。
問題があるとすれば、ただひとつ。彼女と夫が、次のスコール領主夫妻となるにふさわしいことを、新しく見つかった祖父に納得してもらわなくてはならない。またも発作がこみ上げる。今度は笑いではなかった。いったいどうしたらいいの?
キャサリンの口もとが引きしまった。嘘をつくしかないのは明らかだ。夫のコリンが最近、他界したことをミスター・ハーウェルの事務所で話す時間はあった。ただ、事務弁護士がざっくばらんに語ったところでは、キャサリンの祖父は彼女だけを跡取りとは考えないそうだ。二十七代目スコール領主のトークィル・ペンローズは、島を統治できるほど女性は立派ではないと信じている。だとしたら、夫を演じてくれる男性をさがさなければ。そして、彼女を跡取りに定めてくれるよう、死期間近な祖父を上手に説得するしかない。でも、誰に頼めばいいの?
答えはすぐに出た。マイケル・ケニヨン卿。
彼はいい友人だった。キャサリンに恋心を抱いていないという絶対条件も満たしている。最後に会ったとき、彼はこうも言ってくれた。何であれ、助けが必要になったら、いつでも訪ねてくるようにと。
マイケル卿がどこで見つかるか、それなら正確にわかる。公爵の子息であり戦争の英雄として、彼は社交新聞でたびたび話題にされるのだ。〝MK卿、S伯爵夫妻の客人として今シーズンを街で過ごす〟、〝MK卿、F嬢と公園で乗馬をお楽しみのところを目撃される〟、〝MK卿、美しきレディAのお供をしてオペラへ〟。キャサリンはそうした短い記事を読まずにいられなかった。
マイケルが助けてくれるとしたら、かなりの時間を一緒に過ごさなくてはならなくなる。ということは、自分の気持ちにしっかりとふたをしておく必要があるわけだ。でも、去年の春、ブリュッセルではなんとか我慢できた。今度もできないはずがない。
それよりはるかにつらいのは、彼に嘘をつかざるを得ないことだ。マイケルはキャサリンに大きな借りがあると感じている。彼女が生活苦にあえぐ未亡人になったと知れば、何よりの手助けは結婚を申し込むことだと考えるかもしれない。ええ、あり得ることだわ。そう思うと、キャサリンのお腹のどのあたりかが奇妙な興奮にふるえた。
けれども、彼女とコリンのような夫婦のあり方を、マイケルは決して受け入れないだろう。普通の男性なら、みなそうだ。だからといって、自分の恐ろしい欠陥を打ち明けるなんてとてもできない。考えただけでも胃が引きつってしまう。コリンはまだ生きていると思わせておくほうが、一番簡単で、安全だ。
メイフェアまで歩くと、長い道のりになる。そこにたどり着くころには、嘘も言えるようになっているだろう。
みじめな衝撃だらけの一日のあと、マイケル・ケニヨンがストラスモア・ハウスに戻ると、召使い頭から名刺を渡された。「ご婦人がお会いしたいとお待ちになっています、閣下」
マイケルの開口一番の言葉は、文字にできないほど乱暴だった。それから、彼は名刺を見た。ミセス・コリン・メルボーン。
なんと、キャサリンではないか。よりによってこんなときに。そう思いつつ、彼女が同じ屋根の下にいると思うと、どの部屋で待たせているのか、召使い頭にたずねるのももどかしいくらいだった。答えを聞くとすぐに、マイケルは小さな客間まで大またで行き、ドアを大きく開けた。「キャサリン?」
彼女は窓の外をながめていたが、マイケルが入ってくるとこちらを向いた。清楚にまとめた黒っぽい髪も、地味な灰色のドレスも、彼女の美しさをいっそう引き立てるばかりだ。
前に別れたとき、マイケルは二度と会わずにすむことを心のなかで祈ったものだった。去年は相当な時間と気力をつぎこんで彼女のことを忘れようとした。ところが今、本人がここにいるとなると、あとでどんなつけがまわってこようとかまわなくなる。この女性を見るのは、炭鉱のなかで新鮮な空気を吸うようなものだった。
キャサリンは不安そうに言った。「お邪魔して申しわけありません、マイケル卿」
マイケルはしばし、自分を落ち着かせ、それから部屋を横切った。「ぼくらはそんなに堅苦しい間柄だったかな、キャサリン?」気さくに言った。「会えてうれしいよ。相変わらず美しい」
キャサリンの手を取ると、危うい一瞬、許しがたい何かをしてしまいそうでこわくなった。その一瞬は過ぎ、彼女の頬に軽いキスをした。友人としてのキスを。
手をほどき、マイケルは安全なところまであとずさった。「エイミーはどうしている?」自分にむち打って言いそえる。「コリンは?」
キャサリンはほほ笑んだ。「エイミーはとてもいい子にしています。今ごらんになれば、あの子だとわからないでしょうね。去年の春から三インチは背がのびたはずだから。コリンは――」短いためらいがあった。「まだフランスにいますの」
淡々とした口調だ。夫の話をするときは前から感情を表さなかった。感心なことに、彼女にはそういう静かな気品があるのだ。「ぼくも礼儀知らずだな」彼は言った。「どうか、座って。お茶の呼び鈴を鳴らそう」
キャサリンは握りしめた自分の手を見下ろした。その横顔は、ルネッサンス絵画の聖女のようにやさしく清らかだ。「先に用件をお話ししたほうがいいかと。実は、かなり突飛なお願いがありますの。あなたが――お聞きになれば、わたしを放り出したくなるかもしれないわ」
「それは絶対にないよ」マイケルはおだやかに言った。「きみは命の恩人だ、キャサリン。何でもぼくに頼んでくれ」
「身にあまるお言葉だわ」彼女は目を上げた。はっとするような水色の瞳が、黒みがかったまつげのあいだから鋭く見つめた。「実を言うと……わたしには夫が必要ですの。一時的な夫が」
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