小悪魔に愛のキスを
ニコール・ジョーダン著/森野そら訳
940円(本体895円)/2009年7月27日発売
原題:TO SEDUCE A BRIDE
『グレイの瞳に花束を』で日本デビューを飾ったニコール・ジョーダンの、『恋愛戦争』シリーズ第3作です。ニューヨークタイムズ・ベストセラー第5位にランクイン。
あらすじ
令嬢リリアンは、姉の結婚を祝う宴に参加していたが、祝宴を抜け出し馬小屋の二階に座っていた。子猫を産んだばかりの母猫に餌をあげるためだ。
リリアンは、今朝、姉の結婚式で出会ったばかりの侯爵ヒースに心を乱されていた。ハンサムな貴族には警戒心を抱いているが、ヒースが接近してくると、ドキドキと落ち着かなくなる。
そんなことを猫たちに向かってつぶやいていると、馬小屋にヒースが現われる。
ヒースは、リリアンが火の玉みたいなおてんば娘だと聞いていたので、猫たちへのやさしい心づかいをみせるリリアンに驚きを感じる。そして、炎を内に秘めたような彼女に惹きつけられ、キスしてしまう。
そのキスに衝撃を受けたリリーは、自分が怖くなり、ある場所へ姿をくらすことに。それは友人ファニーが経営する、高級娼婦たちの下宿屋だった。そこでリリーはかつて高級娼婦だった、ふたりの老女フレールとシャンテルから頼まれて、下宿している若い娼婦たちがパトロンを見つけられるよう、礼儀作法を教えはじめる。
一方、一カ月近く、リリーを捜索していたヒースは、ようやくリリーの居場所を突き止める。馬小屋でふたりの間に走った火花……自分の思いが本物だと気づいたヒースは、リリーに求愛をする。拒絶するリリーを見て、高級娼婦のシャンテルとフレールたちがルールを提案。
まず、二週間という求愛期間を設け、求愛者としての創造性と効果を採点する。十点満点を得られたら、三カ月の正式な求婚期間を得られる――かくして恋のゲームが始まった! ヒースは何点稼げるのか――?
冒頭のご紹介
1
レディ・フリーマントルの仲人ぶりにはイライラするわ。
あれでは、聖人でも頭がおかしくなるというものよ。
聖人じゃないわたしはなおさらだわ。
――ミス・リリー・ローリングからファニー・アーウィンへの手紙
一八一七年六月、イングランドのチェズウィックにあるダンヴァーズ館にて
「どうしてあの人の前にいると落ちつかなくなるのかしら。わけがわからない」リリアン・ローリングは、おぼつかない口ぶりで灰色の猫に向かってつぶやいた。「あんなふうにわたしの心を乱す男性は初めてよ」
リリーの愚痴に返ってきたのは、ゴロゴロというのどを鳴らす音だけだった。
「ハンサムだからってだけじゃないの。いつもはハンサムな貴族なんて気にならないもの」どちらかと言えば、ハンサムな貴族には警戒心を抱いている。「それに、あの人の地位や財産にだって、ちっとも関心ないわ」
ほろ酔いかげんのため息をつきながら、リリーはわらの上で体を伸ばし、猫のふわふわした毛皮をなでた。クレイボーン侯爵ヒース・グリフィンが自分に及ぼす情けない影響について、説明をつけずにはいられない。今朝、姉の結婚式で初めて出会ったばかりだというのに。
「問題は、あの人が……み、魅力的……すぎるってことだわ」それに、男らしくてエネルギーにあふれていて、たくましいことも問題だ。
どんな特徴があるにせよ、彼に接するとばかばかしいほどドキドキと興奮してくる。
「あ、あんな男……」
舌がよく回らないことに気づき、リリーは唇をかみしめて黙り込んだ。三杯もシャンパンを飲んだせいだわ。どんな酒でもすぐに酔ってしまうことを考えると、二杯はよけいだった。けれども、今夜の祝宴のせいで気がめいっていたから飲まずにはいられなかった。
ひどく酔っぱらっているわけではない。けれど、舞踏会用のドレス――淡いバラ色の、絹の繊細なドレス――を着てダンス用の靴をはいたまま馬小屋の二階まで上がったのは、まちがいだったようだ。食べ物を入れたナプキンの包みを手に、細身のスカートではしごを登るのは、運動能力に対する挑戦といえるかもしれない。それでも、披露宴が終わって出て行く前に、ブーツに夕食を持っていってあげたかった。
ダンヴァーズ館の馬小屋に住む猫ブーツは、最近子猫を数匹産んだばかりだ。猫の一家は、農場の犬から守るためリリーが持ち込んだ箱の中で気持ちよさそうに丸まっている。子猫たちを怯えさせないよう、リリーはランタンを下のほうにぶら下げておいた。あたりに漂う穏やかな光が二階の静けさを包みこんでいる。もうそこまで近づいた夏を思わせるあたたかな夜だ。
三匹の子猫は小さな毛糸玉みたいにまん丸で、まだ目が開いたばかりだが、すでにそれぞれの個性を発揮しはじめていた。まるでローリング家の姉妹みたい、とリリーは思った。眠たげに目をまばたきさせる子猫を見ていると、胸の奥からやさしい気持ちがこみ上げてくる。リリーは、無力で不幸なものを見ると心を動かされずにいられなかった。
けれど、正直なところ馬小屋にきたのは、猫に餌をやって自己憐憫にひたるためだけでなく、クレイボーン侯爵から逃げ出すためでもあった。
ブーツが雉子の胸肉のローストにかぶりついている間、リリーは箱の中にそっと手を伸ばし、愛らしい子猫を一匹抱き上げた。
「おまえは自分がどんなにかわいいか、わかってるの?」そうつぶやいて、子猫のやわらかな黒い毛皮に鼻を押しつける。リリーと同じようにいたずらっ子の黒い子猫は、彼女の鼻を楽しげにパフッとたたいた。
リリーは小さな笑い声をあげた。こうしていると、胸の奥に抑え込んだ痛みが涙にならなくてすむ。
今朝、村の教会で行われた結婚式はすばらしかった。いちばん上の姉であるアラベラがダンヴァーズ新伯爵であるマーカス・ピアースと結婚したのだ。その後ダンヴァーズ館で行われた披露宴と舞踏会には六百人もの客が招待された。これほど大規模な宴会が成功したのは、次女ロズリンの努力と女主人としての能力のたまものだろう。
舞踏会はまだ一、二時間はつづいて真夜中過ぎに終わるはずだ。けれど、リリーとロズリンはついさっきアラベラと三人で別れのひとときを過ごし、幸せと悲しみの混じり合う涙を流したところだった。
アラベラが結婚していなくなるのは、リリーにとってひどくつらいことだった。おまけに今夜は、親切な後援者であるウィニフレッド――レディ・フリーマントル――に仲人役としてはた迷惑なおせっかいを焼かれたせいで、大変な思いをすることになった。数年前ローリング姉妹が無一文になり、生活の糧を稼ごうと必死になっていたとき、ウィニフレッドは学校設立の資金を提供してくれた。裕福な商人の娘たちを対象にしたフリーマントル・アカデミー・フォー・レディーズだ。そのウィニフレッドが、舞踏会の間じゅう、マーカスの親友であるクレイボーン侯爵にリリーを押しつけようと躍起になっていたのだ。
結局、残念なことに、ウィニフレッドはリリーをその場に押さえつけて侯爵にむりやりダンスを申し込ませた。
「ミス・リリアンほどすばらしい娘さんがダンスのお相手を務めてくれるなんて、けっこうなことだよ、侯爵。まちがいないさ」中年の貫禄たっぷりにウィニフレッドが断言した。
「非常に光栄です」クレイボーンは、気だるそうな微笑みをリリーにふりまきながら答えた。
リリーは顔が赤くなるのを感じた。裏切り者の友がうれしそうな顔をしてその場を去ったあと、リリーはクレイボーンの顔をにらみつけた。怒りのあまり言葉が口から出ない。
侯爵は長身でたくましい体格の持ち主で、人の目を引かずにおかない男らしさを漂わせている。髪は明るい茶色で、瞳は金色をちりばめたハシバミ色だ。非常に男性的な顔だちは、これまで数知れない女性の心を惹きつけてきた。
リリーは自分も例外ではないと気づいた。情けないほど脈が速まり、感覚が鋭くなっている。気まずい思いにとまどい、ウィニフレッドの策略に怒りを覚えながら、リリーはその場に立っていた。花婿候補として有望で非常に裕福な侯爵の前で、まるで市場に引きずり出された雌牛のように見せびらかされるなんて、屈辱もいいところだ。
リリーは黙ったまま、クレイボーン侯爵の差し出した手をとり、舞踏会のフロアへと導かれた。楽士たちがワルツを奏ではじめると、仕方なく侯爵の腕の中に入る。こんなに近づきたくなかった。彼の熱気と精力を感じずにはいられない。侯爵の体を意識せずにはいられないのも不愉快だった。快活な音楽のリズムに合わせてリードされていると、侯爵の持って生まれた優雅さやあふれ出る男の魅力を感じずにはいられなかった。これまで男性に対してそんなことを感じたことはなかったのに。いつもなら、暴力をふるいそうな男かとか大きな拳を持っているかという点にしか目が行かないというのに。
「踊ることがおきらいですか、ミス・ローリング?」とうとうクレイボーンが沈黙を破った。「それとも、ぼくと踊るのがおいやなのかな?」
リリーは侯爵の鋭い言葉に唖然とした。「わたしがどうしていやだとお思いになるんですか、侯爵様?」あいまいな答えを返す。
「恐ろしく不機嫌な顔をしているからですよ」
改めて頬が熱くなったのを感じて、リリーはむりやり礼儀正しい微笑みを浮かべた。「申し訳ありません。ダンスはあまり得意ではありませんので」
長い睫毛の下から瞳がきらめいた。「かなりお上手ですよ。正直なところ驚きました」
リリーは眉をつり上げた。「どうして驚かれるんでしょうか?」
「マーカスから、あなたは火の玉みたいなおてんば娘だと聞いていたものでね。舞踏場でいやいや踊っているよりも、野原を馬で駆けまわるほうがお好きかと思っていました」
正直な感想を耳にして、リリーは思わず笑い声をあげた。「確かにワルツを踊るより馬に乗るほうが好きです、侯爵様。でも、〝火の玉〟は少々言いすぎではないかしら。マーカスがそう思うのは、彼がアラベラに求婚していたとき、わたしが姉の心配をして彼としょっちゅう言い争っていたからでしょうね。でも、わたしは元々穏やかな性格なんです。おてんば娘ではありますけど――ただし、アカデミーで教えているときは別だわ。生徒にいい見本を示さなければなりませんから。それから、こういう場で姉たちのために行儀よくしなければならないのなら、ちゃんとふるまえます。ほんとうのことを言えば、社交界というものに挑戦するのは、なかなか楽しいものだわ」
「反逆者は尊敬する」侯爵が楽しげに言う。「きみはお姉さん方とはだいぶちがうようだね」
侯爵の言葉にリリーは鋭い視線を返した。好意的な指摘かどうか、さぐっている。
好意的でない評価かどうか気にしているわけではない。姉たちと比べていつも劣っている自分を気に病んでいるわけでもない。アラベラもロズリンも金髪で白い肌のすばらしい美女で、背も高く優雅な体つきをしている。
リリーは姉たちほど背が高くもなければ、貴族的な雰囲気も持ち合わせてはいない。濃い栗色の髪と黒い瞳にピンク色の肌をしている。そのせいで、金髪ぞろいの家族の中でたった一人、もらいっ子が混ざっているように見える。その上、姉たちは優雅なレディらしい上品さそのものといった感じだが、リリーはといえば元気そのもので、上流階級の息苦しい因習に対して強い反感を抱いている。そのせいで、しょっちゅうトラブルに見舞われていた。
けれども、リリーは自分の反抗的な考え方について侯爵に謝るつもりはなかった。実際、会話が少なければ少ないほどいいとすら思っていた。
けれど、侯爵のほうはリリーの意図を察して黙りこむ気はないらしい。「今朝の結婚式はどう思っているのかな、ミス・ローリング?」
またもや、ひどく気にさわる質問をされたリリーは、なんとかいらだちを隠した。「アラベラの花嫁姿はとてもきれいでしたわ」注意深く言葉を選んだ。
「だが、お姉さんとぼくの友人が結婚するのに賛成ではなかったのだね」
リリーは顔をしかめた。新郎新婦の姿を求めて舞踏場に視線を走らせると、アラベラとマーカスが笑いながらワルツを踊っている姿が目に入った。「こんなに早く結婚するなんて、姉がまちがいを犯していなければいいんですが。ふたりは知り合ってからまだ二カ月ですもの」
「だが、ふたりとも激しく愛し合っていると公言している」
「ええ、そうです」リリーが暗い表情で答えた。ベルとマーカスがかろやかに踊りながらいとしげに視線を交わす様子を見れば、ふたりがとても愛し合っていると認めないわけにはいかなかった。「でも、長つづきしないのではないかと心配しています」
クレイボーンが微笑んだ。「きみの言い方は友人のアーデンとよく似ているよ」
アーデンとは、マーカスのもう一人の親友、アーデン公爵ドリュー・モンクリーフのことだ。ダンヴァーズとアーデンとクレイボーンの三人は、長年の親友同士だった。「公爵様もふたりの結婚に反対なんですか?」
「ああ、きみと同じ理由でね」
「侯爵様、あなたはふたりの結婚についてどうお思い?」
クレイボーンの目が楽しげに輝いた。「とりあえずは判断を保留している。だが、認めてもいいという気にはなっているね。ふたりはものすごく幸せそうだろう?」
「ええ。ずっと幸せでいてほしいと思ってます。アラベラが傷つくところは見たくないから」 その言葉に侯爵は引っかかった様子を見せた。「マーカスがきみのお姉さんを傷つけると考えているのかい?」
「貴族の男性って、そういうことをしがちだわ」リリーは小声でつぶやいたが、侯爵には明らかに聞こえていた。
突然、侯爵の顔に好奇心が浮かんだ。「貴族の男だからといって、全部が全部悪人とは限らない、ミス・ローリング」
「ええ……公平に見るなら、そうでしょうね」
〝悪人〟という言葉を耳にして、リリーは値踏みするように侯爵を見つめた。たくましい肉体の持ち主。広い胸板に筋肉質の体つきをしている。リリーの頭のてっぺんは、せいぜい侯爵の肩までしかとどかない。
いつもなら、たくましい男性には警戒心を感じる。男性を見るといつも「この人は女性をどんな風に扱うのか」と考えてしまう。幼い頃からの習慣だった。だが驚いたことに、クレイボーン侯爵のそばにいても不安は感じなかった。
とてもたくましいけれど、弱い者に暴力をふるうような男性には見えない。
ゆったりとした微笑みのせいだろうか。それとも、彼について聞いたうわさ話のせいだろうか。クレイボーン侯爵は女性の心を奪う伝説の男だった。
彼もまた女性が大好きだと言われているけれど、おおぜいの女性たちから一人に絞りこんで結婚するほどではない。それを考えると、彼が親友マーカスの突然の結婚に対して反対しなかったのは驚きと言うしかなかった。
「きみはぼくのことを見込みなしだと切り捨てたりしないと思うが」クレイボーンの言葉が、リリーの物思いを破った。「少なくとも、もっとよく知り合うまでは切り捨てないでほしいな」
リリーは、とりとめのない思いを引き締めにかかった。「もっとよく知り合う必要なんてないと思いますけど、侯爵様」かろやかな声だ。「わたしたち、同じところで出会うこともありませんし。この舞踏会が終わったら、わたしはすぐにおてんば娘に戻るつもりです。死刑にするとでも言われなければ、今後絶対に舞踏会に足を踏み入れるつもりもありません」
侯爵のハスキーな笑い声は魅力的だった。その声には、聞く者の心を安らげるような響きがあった。「マーカスからきみがとても変わっていると警告されていたよ」
リリーは、あふれでる彼の魅力に抵抗しなければ、と強く感じた。楽しげな侯爵の目から視線を引きはがすと、彼の肩の先に視線を移した。
クレイボーン侯爵に惹かれているなんて認めたくなかった。いっしょにいると、なぜか自分が繊細で壊れやすくて女らしいような気がしてくる。こんな気持ちはまったく気にくわない。けれど、侯爵の体からにじみ出る男らしさは圧倒的だった。
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