ふたたび、恋が訪れて

ふたたび、恋が訪れて

ふたたび、恋が訪れて カバ.jpgカーラ・ケリー著/松本都訳
900円(本体857円)/2009年7月27日発売
原題:MRS.DREW PLAYS HER HAND
1995年のRITA賞受賞作(ベスト・リージェンシー・ロマンス部門)です。

あらすじ

 19世紀英国。ロクサーナ・ドリューは半年前、夫アンソニーを病気で亡くし、悲しみに暮れる生活を送っていた。ところがある日、亡夫の兄マーシャルから、養ってやるかわりに自分の愛人になれと迫られてしまう。なんとか好色な義兄から逃れたい思いでいっぱいのロクサーナは、散歩の途中で、小さな家を見つける。それは、あたりの領主であるウィン卿の館の、離れ家だった。
 家はボロボロな状態だったが、修理をすれば済むことができると考えたロクサーナは、思い切ってそこを借り、幼い娘ふたりを連れて移り住む。
 ところがある晩、ウィン卿が領地の視察のために、この家を訪れる。ウィン卿は扉の向こうに現れたロクサーナの美しさに、心を奪われてしまう。
 一晩の滞在のつもりが、ロクサーナの元を離れたくないウィン卿は、数日、本館に滞在していた。ウィン卿は戦争で友人たちを無くし、世間に対して心を閉ざしていたが、ロクサーナや娘たちとの交流を通じて、少しずつ心にぬくもりを取り戻しはじめる。
 すると、ロクサーナの義兄マーシャルが、裁判所に訴え、娘ふたりを取り上げようとしてしまう。娘を奪われたくないロクサーナは、ウィン卿に助けを求めるが……。


冒頭のご紹介

 ロクサーナ・ドリューは他人の敷地に侵入するような女性ではない。たとえ地主がいまこの国にいないとしても。けれども足にはまめができていたし、モアランド・パークの草地には心誘われた。靴とストッキングを脱いで、はだしであの草原を横切っていこう。そうすれば家まで五キロほど近道できそうだ。
「だから新しい靴は困るのよね」ロクサーナは森の出口にある丸太に腰かけ、かかとをさすった。間隔を取って置かれた丸石のあいだを抜ければ、その向こうには広大な牧草地が広がっている。ドレスの前に留めていた懐中時計のふたを開けて時刻を確かめた。午前七時。娘のヘレンとフェリシティはまだ寄り添ったままぐっすり眠っているだろう。お手伝いのメギー・ワトソンはそろそろ目を覚まして、紅茶を淹れるための湯を沸かそうかと考えているころだ。
 そよ風の香りをかいだ。九月になっても咲きつづけている野薔薇の匂いがする。その向こうからは磯の強い香りも漂ってきた。目を閉じて、砂丘をはだしで歩く感触を想像した。さぞや気持ちがいいだろう。今年は暗い気持ちで春を過ごし、不安に怯えて夏を過ごした。ヘレンはスカボローの海へ行きたがっていたけれど、来年の夏も行けそうにない。冬は目の前だし、考えなければいけないことは山積していて、とても海水浴の計画を立てる余裕はなさそうだ。
 ロクサーナは靴とストッキングを脱いで、露に濡れた草のなかで足の指を広げた。昔はよく歩いたものだわ。座り心地の良い丸太からはなかなか立ち上がれなかった。思わず笑みがこぼれる。夫のことを考えてほほ笑むことができるようになったのはありがたかった。彼は歩くことが好きで、彼女は初めての子を宿していたときも教区の巡回に同行させられた。臨月になっても解放してもらえなかった。田舎道を遠くまで連れていかれたときは、生け垣の下で産み落とすことになるかもしれないと不服を言ったけれども、彼はただ笑みを浮かべただけだった。そしてベッドでヘレンを出産したとき、彼はそばにいてくれた。
 ロクサーナは上体をかがめて頬づえをついた。「あなたはいつも正しかったわ、アンソニー」目を潤ませたものの、彼を葬ったばかりの四月や五月に比べれば、悲しみに浸る時間は短くなっていた。
 ふたりめの妊娠中も夫婦で歩きつづけた。そしてある朝のこと。アンソニーはロクサーナを木の下に座らせて、医師の診立てを伝えた。ロクサーナを見つめて冷静な口調で話した彼の姿は、一生彼女の脳裏から消えることがないだろう。「愛する人、医者が正しければ、わたしは来年の夏までもたないだろう」
 アンソニーは次の夏を生き延び、さらに次の夏までもちこたえた。けれども二番目の娘フェリシティが初めて歩いたところは病床から見ることになった。フェリシティが〝パパ〟と呼びかけて父のベッドに潜り込むようになったころには、彼はやせ衰えていた。アンソニーがその静かな生涯そのままにひっそりと息を引き取ったのは、フェリシティが四歳、ヘレンが六歳のときだ。余命一年以下と診断していた医師は目を見張った。
 その後のロクサーナの苦しみは、最近になってようやく薄れ始めたばかりだ。ロクサーナはずっと、医師を驚かせた夫の生命力のことを考えていた。アンソニーがどれだけ強い人だったのか、誰も知らなかったわ。彼女は目の前の草原に目を凝らした。あの人は静かで控えめな弱い人間だと思われていた。でもその内側では、消すことのできない炎が輝いていたのよ。わたしたち母子は手厚く彼の世話をした。それに常に祈りを欠かさなかった。この理性の時代にあって、多くの人は祈りなどばかげたことだと切って捨てるけれど。
 長く暗い冬のあいだ、ロクサーナはアンソニーが徐々に衰えていくのを見守った。そして、また長い散歩を始めよう、病室以外の空気を吸おう、と自分に誓った。夫が腕のなかでついに息絶えたとき、彼女はもちろん悲しかったけれども、やっとこれで解放されるとも感じた。ホイットコム教区の牧師アンソニーの人生にいま終止符が打たれ、残された愛する妻はこれから彼なしで生きていくのだ。
 最初はホイットコムの村をほんの二、三キロ程度歩いてみる短い散歩から始めた。通りかかった教区民は当然のように馬車を止め、目的地までお送りしましょうと申し出てくれた。別に目的地などないのだとも言い出せず、彼女は必要もないのに引き出しにおさまらないほどの布や、食べ切れないぐらいのパンを買ってしまうのだった。
 貯えが減ってきてからは、草原を歩くようになった。これなら、善意の人に出会ってよけいな情けをかけられる心配はしなくていい。雨の日も晴れの日も、娘たちの寝顔を見てから家を出て、心地よい疲れを感じるまで歩きつづけた。先日靴を一足履きつぶして新しいのをおろしたばかりだったため、こんなに大きなまめができてしまった。「新しい靴は拷問だわ」ロクサーナはそうつぶやいて立ち上がった。
 いつもより遠くまで来てしまった。誰の領地に入り込んだのかはわかっている。ここはウィン卿フレッチャー・ランド大佐の数多くある領地のひとつだ。ウィン卿は現在ベルギーで兵役に就いているはずだ。アンソニーはいつでも教区民の消息をきちんと把握していた。遠くにいる人々のことも、近くに住みながら決して礼拝に参列しない人々のことも。
ウィン卿はその両方に当てはまった。ロクサーナはブリュッセルにいるウィン卿にクリスマスカードを送ったことを覚えている。アンソニーの繊細な筆跡で始まり、ロクサーナのしっかりした字で終わったカードだ。ウィン卿はヨークシャーでも名だたる連隊を率いていた。それ以外の側面もあったけれど、噂話の嫌いな彼女はただ残念そうに頭を振るだけだった。「過ちを犯さない人間などいるだろうか?」というアンソニーの言葉にまったく同感だった。
 ロクサーナは木々に囲まれた広い草原に視線を向けて、目の前の畑を横切った。鳥たちは短くなりつつある秋の日を少しでも謳歌しようとするかのように騒がしく鳴いている。アンソニーを長い闘病生活の末に失って苦しんでいたときは、神が喜怒哀楽の激しい軽率な自分を懲らしめているのだろうかと思い悩むこともあった。だがそんな感情もいまではすっかり消えてしまった。無感動な日々を送りつつ、時折、どうやったらわき腹が痛くなるまで笑ったり心から怒ったりできるのだろうと考えた。いまでは、そんなことはとうていできそうにない。
 でも心配することはできるわ。収穫期の近い畑の匂いをかぎながらロクサーナは思った。娘たちとわたしはこれからどこへ行けばいいの? いつになったら行けるの?

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第1作:『スキャンダルは恋のはじまり』
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26--今宵、悪魔に身をゆだねて.jpg

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