放蕩者に魅せられて
メアリー・ジョー・パトニー著/中村藤美訳
960円(本体 914円)/2008年11月27日発売
原題:THE RAKE(revised from The Rake and The Reformer)
RITA賞受賞、ロマンティック・タイムズ誌5ツ星獲得、「All About Romance」のTOP100(1998~2007)、NYタイムズベストセラーなど、高い評価を受けている「ロマンス小説の金字塔」。せつなくも心に深く響くヒストリカル・ロマンスです。一つ一つのシーンや登場人物の心理がとても丹念に描かれており、最後までドキドキが止まりません。衝撃の読書体験となることをお約束します。
あらすじ
舞台は19世紀英国摂政期。幼い頃に両親を亡くしたレジナルド・ダベンポートは、伯爵であるおじに、跡取りとして育てられてきた。だが、突然あらわれた伯爵の孫、リチャードに財産も爵位も奪われてしまう。賭けや飲酒に明け暮れ、世間をにぎわす「放蕩者」のレジーに、リチャードは、大きな領地を譲ることにする。それは、レジーが小さい頃に育ったストリックランドだった。そこは、優秀な執事によって管理され、領地のなかでももっとも実り豊かな土地となっていた。
新領主となったレジーが、ストリックランドを訪れると、そこで待っていたのは、男の装いに身をつつむ、女性執事アリスだった。アリスは、女であることを理由に解雇されるのではないかと恐れるが、彼女の実績をかい、レジーは雇用を継続する。
新領主の放蕩三昧な噂や女癖の悪さを耳にし、不安にかられるアリスであったが、レジーの圧倒的な男らしさにふれ、次第に惹かれ始める。だが、レジーには深刻なアルコール依存があった。ある晩、レジーは酔ったいきおいで、アリスにキスをしてしまうが……。
冒頭のご紹介
2
その日は、目が覚める前からよくない一日だった。悪夢にうなされると決まって、アリスは何時間も気分が悪くなる。ありがたいことに、それは年に二、三回しか起こらないけれど。
悪夢のなかではいつもフランス窓のすぐ外にいて、部屋のほうから誰かの間延びした声が聞こえてくる。退屈そうな、意地の悪い口調でもう一人に尋ねているのだ。「どうしてまた、〝のっぽのメグ〟みたいないばりくさった女と結婚するんだ? やけに背が高くて骨ばかりじゃないか。夜に男を温めてくれるような女じゃない。何でも仕切りたがる例の調子で、お前を尻の下に敷くに決まっている」
短い間が空いたあと、恋人はアリスをかばうでもなく、彼女を前にして熱心に訴えた愛を語るでもなく、こう答える。「もちろん金のためさ。ほかに何がある? 彼女はたっぷり贅沢できる身分だからね。あの財産さえ手に入れば、こっちのものだ。誰が大将か教えてやるよ」
その言葉が引き金となって、いつもの吐き気と身も砕けるほどの痛みに襲われる。その言葉に追われるようにしてアリスは、生まれながらに知っているただ一つの世界から逃げてきたのだ。けれども、今朝はついていた。夢がさらに続いてどん底まで堕ちる前に、何かが鼻をくすぐった。アリスはくしゃみが出た。眠りが浅いときは、これで確実に目を覚ます。
アリスは重たいまぶたを開け、夜明けに輝く妖精を見た。ベッドに腰かけた姿は目にもまぶしく、金貨のような色の巻き毛、染み一つないハート形の顔、けがれを知らない濃青色の瞳をしている。ミス・メレディス・スペンサー、親しいものたちにはメリーと呼ばれる彼女を見ると、どんなに険しい心の持ち主も楽しくなることで有名だった。アリスの心は険しくはないけれど、朝のこの時間に楽しくなるのは並大抵のことではない。これでもかといわんばかりに明るくはつらつとして見える乙女が現れた程度では、まだ足りないのだ。
アリスがこの被後見人を怖い目でにらむくらいしかできないでいると、ふわふわとした柔らかなものが彼女の顔をこすった。アリスはまたくしゃみした。「いったい何……」ベッドから半身を起こした。「ああ、お前ね、アッティラ。警告しておいたでしょう、猫ちゃん。今度その尻尾を私の顔に振って起こしたら、犬を見つけてお前を餌にするわよ」
冷たいしかめ面でメリーと猫を交互に見ながら、アリスは重たい髪を顔から払いのけた。夜は三つ編みにしておくのだが、悪夢にのたうちまわるあいだにほどけてしまい、今は肩のまわりにまとわりついている。髪をとくために、少なくとも五分のよけいな時間が必要だろう。
「アッティラに出くわすどんな犬もかわいそうね」メリーはほほ笑みながら、湯気の立つコーヒーの入った分厚いマグを手渡した。「どうぞ、レディ・アリス、お好みの味よ。クリームとお砂糖がたっぷり入っているわ」
長い指でマグを包み、アリスは枕を背中に当ててもたれながら、ありがたくコーヒーをすすった。「ふう……」熱い飲物で体の各部に元気が戻ってくると、ため息をついた。頭もすっきりして、こうきいた。「私はどうしてこんな時間に起こされたのかしら」
メリーがにんまりすると、磁器の人形にはほど遠く見えた。「今日から作付けが始まるから、絶対に早く起こしてって私に言いつけたじゃないの」
「そうだったわね」アリスはさらにコーヒーをあおった。「起こしてくれてありがとう。やっぱりあなたをそばに置いておくことにするわ」
涼しい顔でメリーは言い返した。「あら、そばに置いておかなくちゃいけないのよ、覚えていて? 私と弟たちを快く引き取ってくれたんでしょう。だから、アリスは私たちから離れられない運命なのよ。私に夢中でお嫁さんにほしいっていう男の人を見つけてくれるまではね」
アリスは笑った。コーヒーでいつもの陽気さを取り戻してきた証拠だ。「むらがる男性たちは、確かにみんなあなたに夢中だけど、いつも向こうの片思いね。私の唯一の悩みは、そういう男の人たちを安全なところまで引き離しておくことよ」
アリスはいとしげにメリーを見た。この被後見人は小柄な金髪美人で、少女のころのアリスなら死ぬほどねたましかっただろう。きらいになろうと思えば簡単だが、それにはあまりにも気立てがよすぎるのだ。この子は頭もよく、世知にも長けている。まだ十九回の夏しか迎えていないというのに、空恐ろしくなるほどだ。メリーはアリスの人生のすきまを埋めてくれる存在で、娘と親友を兼ねている。ときどき、どちらがどちらを育てているのかわからなくなるけれど。
後見人が生きている気配を見せてきたので、メリーは言った。「農場の子が伝言を残していったわ。レディ・アリスあてにね。もちろん、つづりはAliceよ」
「私の名前のつづりはAlysだと断りに行くには早すぎる時間ね」アリスはまたあくびした。「それに、正確なつづり方を知らないとしたら、発音も間違っているかもしれないわ。伝言には何とあったの?」
「鶏がどうだとか」
「きっとバーロウね。今日、家に寄ってみるわ」アリスはコーヒーを飲み終え、長い脚をベッドの片側から振り下ろし、スリッパを手探りした。「もうベッドルームを出ても安心よ。また眠りこけたりしないでしょうから。そのばか猫を連れだして、餌をあげてちょうだい」
メリーはくすくすと笑って身をかがめ、毛の長い巨大な雄猫を両腕に抱え上げた。アッティラの体は腕の長さいっぱいほどもあり、縞模様と白い大きなまだらのおかしな毛でおおわれている。その堂々とした面構えからは、川で溺れているところをアリスが引き上げたときの飢えてふらつく子猫を思い出すのはむずかしい。近頃では王として君臨するのが当然の務めと思っているらしく、朝食を献上しない農夫は軽蔑にも価しないのだ。メリーが寝室から運び出すとき、アッティラは訴えるように長々と鳴いた。
アリスはベッドの端に腰かけ、両手で頭を抱えた。消え残る悪夢のせいで上機嫌も薄れていく。しばらくしてため息をつき、彼女は立ち上がった。すりきれた赤のローブをはおって化粧台まで行き、その前に座った。もつれた髪を指ですきながら鏡を見つめ、自分の顔を偏見のない目で調べていく。それが悪夢の一番の解毒剤になることがわかっていた。
確かに男心をそそるような女性ではないけれど、本当に醜いわけではない。顔色は流行よりも濃いが、目鼻立ちは整っていて、男なら美男子と呼ばれるだろう。ただ、体のほかの部分と同じで、顔も大きすぎる。ストッキングだけの足で立っても百七十六センチの背丈になり、ストリックランドの大半の男性と同じか、それ以上に高かった。
もつれた髪をほどくと、今度はブラシをかけ始めた。富が見せかけの女らしさをさずけていたあのころ、重みのある巻き毛は栗色と呼ばれる色だった。生活のために働いている今はただの茶色となり、とりたてて目立つ色ではない。それでもアリスはひそかに思った。この髪が私の一番のとりえだ。やけを起こして短く切ったあと、髪はいっそう長く豊かに生えそろった。今では金色の筋が入ってとび色に輝いている。でも、とどのつまり、ただの茶色い髪だ。
その髪を頭の真ん中からまっすぐに分け、三つ編みの片方に取りかかる。それが済むと、両方を頭に巻きつけ、きっちりと冠状に結った。早朝の日射しのもと、顔のなかでもっとも風変わりな部分がはっきりと見て取れた。右目が灰色がかった緑色、左目は温かな茶色を帯びている。こんな特徴を持つ人間には今まで出会ったこともない。左右の目の色が違ううえに、不自然なほど背が高いなんて、世の中は不公平だ。
そう思うと、かすかな笑みが浮かんだ。もう一つの残念な特徴もここであらわになった。ほほ笑んだり笑ったりすると現れる、ばかみたいなえくぼのことは、普段は忘れているのだが、こうして鏡で見ると、巨大な馬めいた体には何と似つかわしくないのだろう。人形みたいな金髪のメリーにこそ、こういうえくぼがあっていいのに、つむじ曲がりにも、それがないのだ。確かに世の中は不公平にできている。このえくぼを被後見人にあげられるものなら、アリスは大喜びでそうするだろう。
顔をしかめれば、えくぼは消える。だから、アリスは顔をしかめた。ほほ笑んでいるときでさえ、この黒い真一文字の眉は恐ろしげに見える。顔をしかめると、心底すごみがある。
ようやくアリスは鏡に背を向けた。いつも悪夢を見たときに感じるほどには自分はひどくないと納得させる儀式は済んだのだ。今日は作付けの監督をしなくてはならないので、残念ながら、長ズボンにリネンのシャツ、男物の上着を着ることになる。いつもの黒いドレスのほうが大柄な体も目立たない。だが、仕事上、必要なときもある男物の服だと、普通に女らしいくびれがあることが露骨なまでにわかってしまう。こっけいな上背をもってすれば、その効果はあまりにも強烈だ。だからといって、あらゆる男性がおじけづくわけではない。よく見かける流し目から、〝のっぽのメグ〟とベッドをともにするのはどんな感じなのかと興味を抱いているのは想像がつく。
アリス・ウェストンは、面と向かってはレディ・アリスと呼ばれ、背後では教区の行き遅れ三十路女で、ドーセット州のストリックランドという領地のよくできた執事だと言われている。その彼女は今、形のつぶれた帽子を頭にかぶせ、階段を踏みしめて、長い一日の畑仕事を監督しに出かけた。
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